放浪コラム

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チェレンコフ光

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これも、1998年のエッセイ。



美しく神秘的なものはいろいろあるが、そこに恐怖というか畏敬というかそんな概念が入るとさらに美しくなると僕は思う。鞭を持った女王様は美しさと同時に恐怖も外に出していなければ美しさ半減である。

僕はある粉雪の降る午後、K大学の原子炉の実験所を訪れた。この度補正予算でちょっとしたCGを作成することになり、原子炉のモデリングをすることになったのだ。実際作業をする会社の方を引き連れ、打ち合せに出向いたのだった。

事無く打ち合せが終わり、さて帰ろうかという時、先生からご提案が。

「原子炉見ていきます?」

普段、週一で見学会があるのは知っていたので、めったに無い機会に科学好きの僕は興奮してちょっとためらっている連中を促して見学させてもらうことにした。

「もうすぐ原子炉止めるからちょっと待ってな」

さて、原子炉のある建物に向かう。名目上はモデリングの下見だ。が、気分はお上りさん。入り口で名前、所属を記入。が、見学者用の紙の右の方には

「被ばく量」

の空欄が用意されている。しかも、名簿の上の方には5人に1人ぐらいは単位はよく分からないが数字が入っている。ちょっと不安になってくる一行であった。

靴を脱いで黄色い「放射線マーク」の入ったスリッパに履き替える。病院の集中治療室に入る時みたいな服もあるが、今回は必要ないとのこと。で、そこで先生から電子体温計のお化けみたいなのを渡される。

「先生これなんですか?」
「数字が上がっていったら被ばく量のことやから、気をつけてな」
「???!!!」
「携帯電話はスイッチ切っておいてな。数字上がるから」

まぁ納得して建て屋内へ。二重のエアーロックの扉をくぐる。中の方が気圧が低くて空気が外に漏れない構造になっている。中はさすがにでかい。入り口近くでパネルを元にちょっと説明を受ける。で、周囲のキャットウォークに沿って上から原子炉を見学。と、「ビーっビービービービービー」と警報音とともに開いてはいけないようなドアが開こうとしている。

「先生大丈夫ですか?」
「気にしたらいかんよ。大丈夫。今日は年度最後の運転だったから作業も多いんや」

運転管理室に進む。なんせ日本でもかなり古い世代の原子炉だから管理室もウルトラ警備隊みたいだ。と、そこで運転部の技官の方から「面白いもの見せてあげよう」との提案。原子炉の真上にいける梯子廊下を進む。普通の見学者は立ち入れないコースだ。

「原子炉を止めてしばらくはまだ放射能が出ているんですよ。そこで冷却水にその放射能が影響して青い光を放ってます。それがチェレンコフ光です」
「チェレンコフ光?」

そこで我々は原子炉の上に立って小さいキャップをはずした穴から中を一人一人覗いた。そこには暗闇の中で怪しく光る、美しさと恐ろしさを持った光が光っていた。本当に美しい。

次に地下へ。これも完全にコース外。まさに原子炉の側面に出る。コンクリートの向こうは原子炉の中だ。が、表面にクラックが・・・。これからメンテナンスするらしい。このあたりで、懐の被ばく計が気になるが仕方ない。

「向うの部屋も見てほしいけどセンリョウ多いしなー」
「センリョウ?」(もちろん放射線量のことである)

僕らは丁重にお断りして出口に向かった。ちなみに女性は見学はできないそうだ。卵子は数が決まっているので、生産工場のある精子と違いやっぱりまずいらしい。出口で被ばく計を見ると、「ゼロ」の値。ホッとしつつも(見学用はゼロしか出んのちゃうか)と疑念がよぎる。

次に放射線測定器へ。体重計みたいなのに乗って手を機械に入れる。するとメーターが上がって結果が表示。

「手0.0 手首0.0 足1.2」

足の1.2がとても気になったが、画面には「異常なし」と出る。

「足は床するからちょっとはでるんや。心配ないよ」

とのこと。壁を見ると、「60時間/月以内」の張り紙・・・。

僕らはお礼を述べて実験所を後にした。貴重な体験であった。

総じて言えるのは、「目にみえんだけに恐い」ということ。ただ、原発に反対の立場の僕も今回は貴重な体験だ。ここはもちろん医学、物理、農業、化学他多様な分野への中性子実験を行っているアカデミックな実験所。毎年一回公開してるので、実験炉のホームページを見て興味のある人は見学して下さい。僕は今月は後、58時間なのでパスしますね。

バクシーシの話

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これも1998年のエッセイ。






イスラム世界では恵まれない人に恵まれている人が施しをするのはあたりまえというか義務なんですが、にやにやにやけながら「俺は恵まれてないんだゼ」と言われてもどうも施しする気になれないものだ。

エジプトの砂漠の中を僕は自転車で遺跡巡りをしていた。王家の墓ではツタンカーメンのお墓など見物してミイラを堪能してお弁当を食べてさて帰ろうかと思ったら、なんと自転車の空気が抜けている。どうもおかしい。誰かが「プスッ」とやったに違いないような抜け方だ。

と、そこへ髭面のにいちゃんが乗った車がやってきて、「へい!ジャパニーズ!お困りかい!」とのこと。「100ドルで乗せていってやるぜ!」とご丁寧に自転車を積めるようなキャリアがアタッチされている。「こいつらやな。」と疑念を抱きながらも数十秒の交渉で「100ドルが10エジプトポンド」まで下がったので(約1/20)、まぁええかな、と乗っけてもらうことにした。

そのまま帰るかとも思ったが、せっかくなので「ハトシェプスト葬祭殿」というこの間銃撃騒ぎがあったところも見ていくことにした。自転車の空気がないのは気になるが、村も近いのでゆっくり見物。で、近所の村まで自転車を押していき、空気ポンプを借りることに。

ところが、村の入り口には空気ポンプを持った住民が山のように待ち構えている。「こっ、これは・・・」と威圧されたが借りないわけにもいかないので、勇気を持って声をかける。「すんません、くう・・」言うか言わないかで「バクシーシ!ポンプー!」の声が全員から叫ばれる。耳が割れそうだ。収拾つかんところをひ弱そうな子どもに声をかけて、数ポンドと飴でポンプを借りる。

ここからがたいへん。持っていた飴と小銭に向かって「バクシーシ!」の子どもの群れがやってくる、やってくる。あわれ、勢いに負けて日本から持参したミルキーはあっという間に村民の手に渡ってしまった。さらににやにやしながら「バクシーシ」の声は終わらない。

観光地であることもあるが、外国人、特に日本人と見ればバクシーシ。「俺はムスリムでもないので知らん」ではすまないぐらいの勢いがあった。彼らから見てみれば、日本の貧乏学生でも大金持。だが、「このやろう!」と思いながらも明るく笑いながら「バクシーシ」といわれると小銭を握ってしまうことも。

さて、有史以来ともいわれる不況に突入しそうな日本人は、貧乏になっても明るく「バクシーシ」と言えるのでしょうか。「恥をかくくらいなら腹を切る」では生きていけないかもよ。

イランへの道

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これも、1998年のエッセイ。






印パ核開発競争が始まってしまったんでしょうか?核の不拡散体制も大国の思うようにはいかない時代の始まりですね。印パ紛争時はあれだけ援助したアメリカも、今度は本気の制裁を加えるようです。

かつて、「地球の歩き方」などがまだ存在しない時代、世界を旅するバックパッカーは英語の「サバイバルキット」などのガイドを頼りに第三世界をうろうろしていました。が、中東内を移動するに際しての情報、特に日本人に有効な情報は少なく、自然に口コミが唯一の情報源になったのです。

当時日本人は特有な立場でした。他の西側諸国と違ってイランとも友好な関係が続いていたのです。が、イラン革命後のイランはそんな日本人にもかなり未知というか危ない世界。周辺国との関係でそこを移動する日本人も慎重な行動が要求されます。

イランへの道の西の出発点はイスタンブール。オリエント急行を利用してイランへアプローチするのもいいですが、バスがスピードでは一番。けっこう味気なくテヘランに着いてしまいます。

が、東の出発点は問題。上海と言う人とバンコクという人に別れます。ここに印パ問題が凝縮しています。上海からならウルムチやカシュガルといった西域な地名をたどりながら、パキスタンとの国境の峠を越えてパキスタン入り、パキスタン国内を楽しみながらイランへ。けっこうパキスタン北部の村は天国っぽい所らしいです。バンコクからだと、結局印パ国境を越えられず、空路でテヘラン入りしてしまうことになります。

最近、ソ連崩壊により独立した国々を通って、北京~イスタンブールの鉄道が全通したたらしいですね。

一方で、かつての日本人が憧れた、カルカッタ~イスタンブールの陸上ルート、「イランへの道」は紛争が絶えず、ますます困難になって行くようです。

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